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Jorgeです。
前回に引き続き、ピキリャクタ(Piki Llaqta) の小旅行の様子をお伝えします。
前回は展示室の内容でしたが、今回は実際の遺跡の様子です。
ピキリャクタに来るとすぐ目に入ってくるのが、石でできた大きく長い壁です。
高さはかつて12メートルほどもあったとか。
壁をよく見ると、引っ掛かりができるように飛び出した部分があります。
これはピキリャクタが2階建て、3階建ての構造をしていたことを表しています。
ワリ文化は高度な建築技術を持っていたのですね。
ピキリャクタはインカの遺跡ではありません。
プレインカ(インカ以前)のワリ文化(Wari)の遺跡です。
ピキリャクタとは蚤を意味するケチュア語“Piki” と、街を意味する“Llaqta”が組み合わさった名前です。
遺跡を案内してくれたペペさん曰く、このピキリャクタという名前の由来には以下の3つの説があるそうです。
1.そこに住んでいたワリの人々が、小柄な体格で蚤のようにすばしっこかったから
うーん、ペペさん、それは違う気がします。。
冗談を絡めてきたのかもしれない?
2.小石を使った建築方法のため
つまり、インカは巨石文明とも言われ、大きな石を隙間なく組み合わせる建築方法が特徴的ですが、それと比べてピキリャクタの建造物は小さめの石を組み合わせてできています。
それで蚤の街なんて呼んだというわけです。
なるほど、それなら理解できます。
ワリの後に栄えたインカの人たちが後からそう名づけたという訳ですね。
3.スマック・ティカの伝説による
これは悲しいお姫様の物語でした。
ワリの王様にはスマック・ティカ(Sumaq T'ika:ケチュア語で美しい花の意)という、それはそれは美しい娘がいました。
彼女には2人の求婚者がいました。
片方はクスコ人、もう片方はティワナクの人でした。
王様はそれらの求婚者に娘を与える条件を出しました。
それは、「水道のないこの街に水を引いてきた者に娘を与える」という条件でした。
これは楽な仕事ではありませんでしたが、見事やり遂げたティワナクの男がスマック・ティカと結婚する権利を得ました。
(見にくいですが、右の写真の山の斜面にある2本の水平のラインがその水路だそうです)
ところが、王様は娘を誰にも渡したくないという執着心から、なんと二人をだましてしまいます。
結婚した二人が閉じ込められたのは蚤だらけの部屋。
そこから出ることができず、二人は蚤に喰われて死んでしまったのでした。
うーーん、悲しい物語ですね。
王様は気が確かではないですよね。
もっともペペさん曰く、これは伝説なので実際の話ではないとか。
これが本当の由来であればやるせないものです。
しかし、蚤に喰われて死ぬなんてことがあるのでしょうかね?
ピキリャクタには住居だけでなく、宗教的な儀式のための場所もあります。
ワリの建設では中庭があり、そこで儀式をしていたとも言われています。
ペペさんはそんな中庭でいつもサッカーをしているとか。
いいのか??
右の写真のように、白い建材が用いられている建築も見つかっています。
これはピキリャクタのすぐそばで石灰石が採掘されているからですね。
ピキリャクタにはいくつかの屋根で保護された部分があります。
ピキリャクタには3万~5万人程の人が住んでいたと思われるようです。
しかし、土器などの生活用品があまり発掘されていないことから、実はあまり人が住んでいなかったのではという説もあるようです。
じゃ、何のためのこれだけ広い建造物なのでしょうか?
ピキリャクタの遺跡の壁はかなり広大な部分を囲んでいます。
2つの壁に挟まれた通路が延々と続く様子は、中国の万里の長城を思わせるほど、
これが街ではなく、宗教的な儀式のためだけの場所だとしたら広すぎですね。
やはり、ペルーの文明はどれもミステリアスですね!!
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Jorgeです。
前回に引き続き、ピキリャクタ(Piki Llaqta) の小旅行の様子をお伝えします。
耐震構造のピキリャクタの壁 この壁は大きな街全体を囲んでいる |
小さな石でできた壁がピキリャクタのトレードマーク |
ピキリャクタに来るとすぐ目に入ってくるのが、石でできた大きく長い壁です。
高さはかつて12メートルほどもあったとか。
壁をよく見ると、引っ掛かりができるように飛び出した部分があります。
これはピキリャクタが2階建て、3階建ての構造をしていたことを表しています。
2階建て構造だったことうかがわせる部分 |
ワリ文化は高度な建築技術を持っていたのですね。
段々の用に詰まれた石壁 |
プレインカ(インカ以前)のワリ文化(Wari)の遺跡です。
ピキリャクタとは蚤を意味するケチュア語“Piki” と、街を意味する“Llaqta”が組み合わさった名前です。
遺跡を案内してくれたペペさん曰く、このピキリャクタという名前の由来には以下の3つの説があるそうです。
ピキリャクタの住居部分 本格的な町の構造をしている |
1.そこに住んでいたワリの人々が、小柄な体格で蚤のようにすばしっこかったから
うーん、ペペさん、それは違う気がします。。
冗談を絡めてきたのかもしれない?
2.小石を使った建築方法のため
つまり、インカは巨石文明とも言われ、大きな石を隙間なく組み合わせる建築方法が特徴的ですが、それと比べてピキリャクタの建造物は小さめの石を組み合わせてできています。
二重の壁に挟まれた通路を持つ複雑なワリの建造物 |
それで蚤の街なんて呼んだというわけです。
なるほど、それなら理解できます。
ワリの後に栄えたインカの人たちが後からそう名づけたという訳ですね。
3.スマック・ティカの伝説による
これは悲しいお姫様の物語でした。
ワリの王様にはスマック・ティカ(Sumaq T'ika:ケチュア語で美しい花の意)という、それはそれは美しい娘がいました。
彼女には2人の求婚者がいました。
片方はクスコ人、もう片方はティワナクの人でした。
ピキリャクタの向かいの山の水路 見えますか? |
王様はそれらの求婚者に娘を与える条件を出しました。
それは、「水道のないこの街に水を引いてきた者に娘を与える」という条件でした。
これは楽な仕事ではありませんでしたが、見事やり遂げたティワナクの男がスマック・ティカと結婚する権利を得ました。
(見にくいですが、右の写真の山の斜面にある2本の水平のラインがその水路だそうです)
ところが、王様は娘を誰にも渡したくないという執着心から、なんと二人をだましてしまいます。
壁が延々と続く様子は万里の長城のよう |
そこから出ることができず、二人は蚤に喰われて死んでしまったのでした。
うーーん、悲しい物語ですね。
王様は気が確かではないですよね。
もっともペペさん曰く、これは伝説なので実際の話ではないとか。
これが本当の由来であればやるせないものです。
しかし、蚤に喰われて死ぬなんてことがあるのでしょうかね?
遺跡を管理しているペペさんと何故か付いてきた少年 |
ワリの建設では中庭があり、そこで儀式をしていたとも言われています。
ペペさんはそんな中庭でいつもサッカーをしているとか。
いいのか??
右の写真のように、白い建材が用いられている建築も見つかっています。
ミイラが置かれていたかもしれない段がある部屋 |
ピキリャクタにはいくつかの屋根で保護された部分があります。
ピキリャクタには3万~5万人程の人が住んでいたと思われるようです。
部屋が複数作られた建物 |
じゃ、何のためのこれだけ広い建造物なのでしょうか?
ピキリャクタの遺跡の壁はかなり広大な部分を囲んでいます。
2つの壁に挟まれた通路が延々と続く様子は、中国の万里の長城を思わせるほど、
これが街ではなく、宗教的な儀式のためだけの場所だとしたら広すぎですね。
やはり、ペルーの文明はどれもミステリアスですね!!
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ありがとうございます!!
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